撮影の仕事で名古屋を通過したので、立ち寄ってスナップしてみました。
名古屋城(なごやじょう)は、日本の城のひとつ。尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区本丸・北区名城)[1]にある。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
本丸御殿
本丸御殿と天守
城主(藩主)が居住する御殿であったが、1620年(元和6年)将軍上洛時の御成専用とすることになり、改造された。以後、藩主は二之丸御殿に居住した。本丸御殿を使った将軍は秀忠、家光、家茂の3人で、上洛の途中に宿泊している。御成御殿となった後の本丸御殿は、尾張藩士により警備と手入れが行われるのみで、名古屋城主である尾張藩主ですら本丸に立ち入るのは巡覧の時のみであった。
御成専用とするだけあって、格式の高さは当時の二条城本丸御殿に匹敵した。南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていた。他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下御膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていた。車寄の屋根は将軍家や身分の高い一部の大名家の御殿に使用されることが多い唐破風で、黒漆塗りに金の金具の屋根は室町時代の将軍邸の形式で天下人の象徴とされた。[51]
御殿の内、慶長創建の建物は玄関・広間・対面所で、後に建築された書院と比較すると欄間にある障壁画の有無という差異が確認できる。
戦災焼失前の本丸御殿は、桟瓦葺(一部銅瓦葺)だったが、創建当初は柿葺(台所など火を使う場所は瓦葺)で、2018年に復元した本丸御殿は創建当初の柿葺を再現している。
中玄関(中之口部屋)、大勝手、下台所などの一部の建物は、明治初期に陸軍用地となった際に取り壊されている。
これら殿舎等はすべて第二次世界大戦の空襲で失われたが、内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されている。
21世紀になって本丸御殿の復元が計画され、2009年(平成21年)1月19日に着工。2013年(平成25年)5月29日より、玄関と表書院(謁見の場所)が一般公開された[52]。2016年(平成28年)6月1日からの対面所と下御膳所の公開[53]を経て、2017年度(平成29年度)に工事が完了。2018年(平成30年)6月8日より一般公開された[54]。復元範囲は戦災焼失前の構成に、中玄関(観覧者用玄関)を加えている。孔雀の間は壁画史料が無く、無地のままで隣接する柳の間と併せて貸し出しが行われ、また濃尾地震後の改造でそれ以前の内装が不明となった大台所はミュージアムショップになっている。
なお、本丸御殿の建築材として木曽山のヒノキが使われており、木曽の山林地帯はかつて尾張藩の領地で、尾張藩は将来の為に森林保護や伐採抑制政策を進めていた。
本丸御殿の上洛殿将軍御座所には、富山県の井波彫刻の彫刻師が透かし彫り手法で制作し、京都の職人が極彩色に色付けした欄間7枚が設置された。最大のものは幅3.24m、高さ1.4m、厚さ0.27mの大きさで、焼失前の写真等を基に7年の時をかけ忠実に復元されたものである[55][56]。上洛殿襖引手には七宝が施されている。
Wikipediaより