福島県立美術館(写真)
で、「名取洋之助と日本工房」展 が明日まで開催されている。タイの HIV 感染孤児施設「バーンロムサイ」 代表として活躍しておられる名取美和さんがお出でになり、お父様名取洋之助を語ってくださった。お父様が52歳の若さで亡くなったあと、膨大なフィルムや写真、編集した雑誌の関係資料が長い間茶箱に入ったままで放置され、焼却処分しそうになったとのお話など興味がつきなかった。写真とは何かを考えさせられた好企画であった。
「バーンロムサイ」 のHPには、沢山の子供たちの写真が掲載されている。こんなにかわいい子供たちの命が危機に晒されているのだ。名取洋之助のこともそうだが、名取美和さんの活動ももっと多くの方々に知ってもらいたい。
名取洋之助
東京市に実業家名取和作の三男として生まれる。母方の祖父は三井財閥の大番頭朝吹英二。慶應義塾普通部で学ぶも、成績不良で予科に進めず、18歳でドイツに渡る。ベルリン遊学中、国立美術工芸学校のウェイヒ教授を通じてバウハウスのデザイン思想を知る。教授の地元ミュンヘンの美術工芸学校に入り、やがて教授が経営する手織物工場のデザイナーとして働くうちに9歳上のドイツ人女性エルナ・メクレンブルク(のち妻となる)と同棲。エルナが撮った火災現場写真を洋之助が組写真にして写真週刊誌に持ち込んだところ高値で採用され、そのことが機となってベルリンの総合出版社ウルシュタイン社に認められ、ヨーロッパ最大の週刊グラフ誌の契約写真家となり、その身分のまま帰国。
戦前は1933年に木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三らとともに日本工房を設立。翌年、意見の対立により木村、原、伊奈、岡田が脱退し、日本工房は事実上解散となる。その後、太田英茂らの参加を受け、第2次日本工房を立ち上げる。1934年には、対外宣伝誌『NIPPON』を創刊。土門拳、藤本四八などの写真家、山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策などのグラフィックデザイナーを用いつつ、従来の日本のレベルをはるかに超えた内容の誌面を提供しつづけた。
戦後は『週刊サンニュース』や岩波写真文庫の編集に携わり、辣腕を振るった。岩波写真文庫は、第1回菊池寛賞を受賞している。
一貫して西欧流の報道写真および編集を定着させようと奮闘し、組写真などを多用することにより、写真でメッセージを伝達するという方向に注力した。逆に芸術的、主観的な写真作品を「お芸術写真」と呼び、その軽蔑を隠すことはなかった。編集者としては自分の意志に基づき写真作品を強引にとりあつかう傾向が強く、歯に衣を着せない物言いとあいまって、写真家と対立することもしばしばあった。例えば、土門との確執などはその典型的な例である。
1962年に癌のため死去。享年53(満52歳)。
二度目の妻はアナキスト作家宮嶋資夫の娘。
タイのチェンマイでHIV孤児生活施設「バーンロムサイ」代表の名取美和は娘、その娘で「バーンロムサイ」で作られたファッション雑貨やインテリア雑貨を販売する「バーンロムサイジャパン」代表の一人でデザイナーの名取美穂は孫。
名取のもとでスタッフとして働いた多木浩二によると、名取は文章を書くことができず、その著作はすべてゴーストライターが書いたものだという。
撮影:建築写真の齋藤写真事務所
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